京焼・清水焼の歴史


京焼とは、近世以降京都で生産される陶磁器の総称で
あり、現在では清水焼がその代表で、京焼・清水焼と
して伝産法指定品の一つとされる。手仕事を中心とし
た伝統的な技法と、雅やかな意匠を特色とし、製品は
主に高級茶器、食器、花器などがある。

清水焼は起源に諸説あり、一説には宝徳年間(1449~
52)に音羽屋九郎右衛門が東山清閑寺の茶碗坂に窯跡を
発見し、京都深草にあった窯を移したといい、その後
天正~寛永(1573~1644)に音羽、清閑寺などの地で、
正意、万右衛門、音羽屋惣左衛門らが作陶にあたり、
慶長(1596~1615)末に阿弥陀ケ峰の豊太閣廟に煙がかか
るため、命により五条坂へ移転したとされる。

その後、正保(1644~48)頃、丹波の陶工野々村仁清が
京に出、御室焼をはじめ、各窯で作陶し、色絵陶器の
技法を進展させ、その様式を確立した。仁清の弟子に
は尾形乾山がある。

この後停滞期を迎えるが、文化・文政(1804~30)頃、
有田磁器の影響と、煎茶の流行、そして文人趣味を
背景として奥田頴川が中国風の赤絵磁器を製し、門
下に青木木米、欽古堂亀祐、仁阿弥道八などを生ん
だ。幕末には、その製品の多くは五条坂焼物問屋の
手によって全国に売りさばかれ、文政頃には産額約
15000両以上にのぼったといわれる。そのほか江戸期
を通じて清水六兵衛、高橋道八、清風与平らの名手
を生み、大正期以降は清水焼は京都を代表する焼物
となった。大正以降、土地の狭いことなどの理由か
ら五条・清水の業者が、南方の蛇ケ谷・日吉地区に
移転、第二次対戦後もさらに、清水焼団地、炭山陶
芸村へと生産の地を広げて現在に至っている。